新幹線で迷い込んだこと
新幹線の自由席、窓際に座っている私は、とろとろとした頭をシャキッとさせようと、コーヒーを口に含む。そして移動時間も無駄にしないようにと、カバンから取り出した本を開く。
本を読み人生を味わい深くしようとする試みは良いのだが、そんな人生を続けていくためには多少なりともお金が必要であり、お金をもらうためには、何らかの成果が必要である。
そこで、こんなことを考える。自宅にもう一人自分がいて、移動中の自分の代わりに仕事を進めていてくれたらなんと素敵なことではないかと。
その自分Bは、たった今この瞬間までの記憶を私と共有しており、本日のtodoも当然頭に入っているので、チェックリストの上から一つ一つ仕事をこなしてくれる(まず新幹線で数駅分を移動して帰宅してもらわないといけないが)。
そして私も私で労働に勤しみ、何とか一日を終え帰宅する。帰宅後にBと簡単なキャッチアップをする。価値観を共有しているため、判断の結果は納得のいくものが多いが、それでも結果だけを見てもよくわからないことがある。
Bがタスクを消化する中で出会う発見、新たに得た知識、忘れたこと、下した判断、そうしたものは私と共有できていないからである。数日前に殴り書きしたメモから、殴り書きしたという事実以上の意味を見いだせないのと同じである。
同じ判断基準を持っていても触れる情報が変わると行動も変容する。行動の原因と結果を見ると納得できるのだが、結果だけをみても「?」が浮かぶ。
そうしてはじめは小さな差異だったがものが、気付いたら大きな差異になっている。多少の説明を受けてみたところで、いまいち結果やそこに至るロジックを理解できないことも増えてくる。Bが触れてきた情報、そこから受けたインスピレーションを追体験することは、時間的(そしてもちろん空間的)な制約からも難しい。
そうなってくるとなんだかこの男に仕事を任せてよいのか不安になってくる。B自身も私の指示に従うことに嫌気がさしてきて、自分の夢を追うべく荷物をまとめて家を出ていってしまう。そんなBを見ながら私は、夢の内容はさておいても、家を出る判断自体にはきっと心から納得していることだろう。(また、かなり広くなった自宅でほっとしているはずである。)
はて、新幹線乗車時点で分岐した私ともう一人の私は、どの時点で別人となったのだろうか。そう考えていくと、仕事をもう一人の自分に割り振るのは、良いアイデアのようで、そう単純なものでもない気がしてくる。
ふと気がつくと新幹線は多摩川を越え、都内に滑り込んでいる。開いた本に目を落とす。果たして移動時間を有意義に過ごせたのか、評価に迷う。仕事を任せたもはずのBもまた、妄想に耽ってばかりなのではないか。そんな懸念もある。
やはり忙しいときに手を借りるのは猫くらいがちょうどよさそうである。
以上、新幹線に乗って出勤中、数か月前に考えたことなのだが、このところ読んでいるRiddles of Existence: A Guided Tour of Metaphysics にも同じような仮定に基づいた議論が展開されていた。
この良著で展開される議論に倣って問うならば、「過去に私が働いた悪事に対する制裁は、私とBのどちらが受けるべきなのか」という議題にでもなるのだろうが、それはまた考えるのに時間がかかるお題である。
